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OB会のメンバーが現役の頃をふり返りながら、第1期生より順を追って紹介しています。さまざまなエピソードを通してメンバーやサッカー部の当時の雰囲気などが伝わってきます。

第11期 中川 泉  第11号   

「私と南山とサッカーと仲間」



 昭和51年春、南山高校の門を叩き、はや36年、私も52歳になりました。思えば両親と3歳年上の兄の勧めで、私が南山でサッカーをすることになったのでした。当時、島原商業が唯一全国区な存在で、勿論、私も島商進学を強く希望していました。監督の小嶺さんが自宅を訪問し、強烈なラブコールを貰ったのを今でも記憶していて今では、何か懐かしい思い出のようです。



 私達、11期のメンバーは長崎市内の強豪校のキャプテンが多く、橋本監督も私たちも3年時の全国選手権を夢見てやって来ましたが、結果、夢叶わずオールベスト4で終わりました。何でかいつも島商に阻まれ、全国区への道は絶たれ続けた3年間だったような気がします。同期のメンバーは、キーパー(のんぼ)、バックス(茂・謙爾)、ハーフ(ウマ、文敏、タカシ)

フォワード(イズミ・はげ)の8人の男子でチームワークよろしく、遊びも頑張りました。異性も!! 当時は、マージャン、カラオケ、○○、○○も率先して遊び、みんなで大人への階段をゆっくりと

上っていたような気がします。



 卒業後は、九州産業大学で4年間サッカーに励み、長崎へ無職で帰って来ました。現在は、コクヨマーケティング㈱長崎オフィスで勤務しており、30年のベテランとなって趣味のゴルフや長崎県シニアリーグでサッカーも楽しんでいます。私には2人の息子がいて、現在は東京在住で、長男は「セコム」次男は「アルソック」に双方ともに警備関連の「体育会系」の仕事で頑張っています。経歴もほぼ同様で、海星中学〜国見高校〜早稲田大学・東京農業大学と常にサッカーと一緒な人生を送っています。子供が学生の時には、恩師、先輩から「なんで南山にやらんとや!」とよくお叱りを受けました。私は、自分の人生は自分が切り開いて行くと信じています。自分で決めるんです。だから、息子たちの進路は自分達で決めさせました。後悔がないように!!


 私には、人との出会い、人生の友人、恩師、先輩、家族など周りにはたくさんの仲間がいます。歳を取るにつれて、一層、仲間の大切さを実感しています。勿論、南山OB会メンバーも!!です。今でも、先輩、同期、後輩、他校の友達とは、サッカーを通じて仲間の付き合いを続けています。長崎県リーグのU-50、U-40、南山VS南高定期戦、6校対抗戦など忙しくやっています。これ程人生を謳歌できるのも、サッカーを続けてきた事=「財産」だと私は思います。中々、疎遠に成っている先輩、同期、後輩の皆さん、これを期に同窓会でもやりましょう。卒業してからの各々の人生を語り明かそうではありませんか!! 必ず!!橋本先生の話も!!


 最後に、在校生の皆さんへエールを送ります。

人と同じことを続けても、人を追い越すことは出来ないはずです。ライバルも頑張っているからです。我々OBメンバーは「全国選手権」で我が南山高校サッカー部が活躍するのを祈念します。最後に我が恩師、橋本国暁先生、私は南山高校のサッカー部であったことを誇りに思います。そして、先生の教え子であったことが、人間形成の「礎」になったように思います。本当に有難うございました。いつまでもご冥福をお祈りします。

第10期 森内伸一  第10号

 私は南山高校サッカー部第10期生の森内伸一です。私の当時の印象と言えば先輩の方々が凄いメンバーがいるなあと思いました。3年生では中川さん、浜口さん、浅山さん、柏森さん、古川さん。2年生では中村吉郎さん、岡崎さんと思い出せばまだまだたくさんの先輩方が居たと覚えています。私の入部当時、ユニホームで緑と白の縦じまがありました。これは当時の諸先輩から引き継がれてきたユニフォームだ。勝ち運があり大事に扱え、と言われてました。穴があき、ふせをしているようなユニフォームでした。でもこれが伝統なんだなと思わせていただきました。


 このユニフォームを着ての高総体の準決勝で島原商業と対戦し激闘の戦いをしました。1点リードされた後半、右サイドから攻め上がり、ゴール前でのこぼれ球を柏森さんが左足でゴール右隅に叩き込んだ同点ゴール、興奮した私はベンチで鳥肌もので絶叫し自然に涙が溢れてきたこと、 36年ほど経った今でもはっきりと記憶に残っています。今は亡き橋本先生が一番私たちに伝えたかった、指導したかったことは、みんなで守り、みんなで攻める理想のサッカーではなかったかなぁと私なりに思わせていただいています。
2年生になった新人戦、島原商業との対戦で1対1の同点となりPK戦で勝利。決勝戦で諫早商業と対戦しました。その当時の諫早商業は組織プレーがかなり高く強豪でした。しかし中村吉郎主将を中心に立ち向かった事を覚えています。


 接戦のゲームとなり一点リードされて私の同点ゴールもありましたが、結果1対2で負け準優勝でした。私の記憶違いでなければその時橋本先生は「準優勝の賞状なんかいらん」と激怒されて、賞状を破ってしまったと聞き覚えています。それくらい橋本先生は悔しがり、優勝狙っていたんだと思います。このような経験をし、私も三年生で主将を任され、新人戦に臨みました。しかし結果は1回戦敗退。歴代最低の成績を残してしまいました。本当に悔しい思いをしたことは忘れません。私たちの時は三年生が少なく下級生に頼るしかなかったことを思い出します。確かレギュラーの6~7名は下級生だったと思います。それでも高総体は準決勝まで進出することができました。正ゴールキーパーを欠き、一年生ゴールキーパーで戦い抜いた結果ですから、私はチーム全員が頑張ってくれたことを今でも感謝しております。


 振り返れば悔しい思い出が多くありましたが、私の中で南山サッカー部の経験は大きいものでした。チームメイトに恵まれ、いろいろな問題事があった時に同期生はもちろんのこと、下級生のメンバーにも助けてもらった事は忘れません。同期生の林、北村、大河内、村中、本当にありがとう。
最後に南山高校サッカー部のこれからの大きな健闘と飛躍を願っております。
南山 ファイト

第9期 中村吉郎 「先輩方と過ごした日々」 第9号

 現在、私は52歳。高校を卒業して、34年が経ちました。その間、南山高校サッカー部は、監督、コーチ、その他の関係者のご尽力で優秀な成績をおさめられてきました。大変嬉しく思い感謝しております。


 最近の南山高校サッカー部員をみますと、高い個人技としっかりとした強い精神力・判断力のある選手が多く育っています。幼少期の環境や高い指導力の影響だと思います。私がサッカー部に入部したとき、当時は個性的な選手が多かったように思えます。小柄ながらテクニシャンの故小熊キャプテン、けんかでの名を知らないものはいないといわれたチャイナ(8期中川一弥)さん、数々のフェイントと相手からボールをとられない見事なテクニックなど、すべてにおいて素晴らしかったウイングプレイヤーのスペシャリストであるナベ(7期渡辺靖弘)さん。巧みなドリブルから繰り出されるセンタリングやシュートのすばらしさは右に出るものがいなかった点取り屋のゴリさん。とても頼りになりました。


 中盤の怪物パンダ(8期浜口恭三)さんは、試合中に片足が折れても、何事もなかったように最後までプレーし続けたのには驚きました。カキ(8期柿森誠二)さんは、頭脳的で素晴らしいパスセンスの持ち主でした。浅山(8期浅山英光)さんは足のけががなければチャイナさん以上のサッカーセンスの持ち主でした。また、サブには故渕野さんや故岩野さん、松下(8期松下俊次)さんがおられました。岩野さんは下級生の面倒をよく見て下さいました。そして、チームのマスコット的存在のマス(桝本正史)さん。いつも笑顔を提供し、チームを和ませてくれました。


 ディフェンダーには2年生トリオのケンタさんに谷さんに末長さん。1対1の強さとロングキックの精度がすごい方々でした。センターバックには頭脳プレーと的確な判断力が売りの3年生のシュウさんもおられました。


 ゴールキーパーには、セービングとキャッチで抜群の精度を誇る2年生の故曲ぶちさんとブル(8期古川功二)さんは幾度となくチームを救ってくれましたね。3年生にはチームの守護神、森内(7期 修)さんと久保(7期 充)さんがおられ、試合中何度も後ろから渇を入れてもらいました。その他にもたくさんの尊敬する先輩方がおられました。


 最後に、私は幸運にも、1年生の時から先輩方と一緒にプレーをすることが出来ました。先輩方と駆け抜けた日々は、今でも私の宝物です。もう一度、今はなき橋本先生(監督)のもとで皆さんと一緒みプレーをしたいなあ。

第8期 中川一弥 「多才なる仲間たち」 第8号

 まず私自身の南山サッカー部入部までの経緯をお話しします。桜馬場中学校サッカー部の時は、長崎県下では負けたことがない強いサッカー部でした。無謀にもその時、浦和南高校が日本の高校サッカー界の名門であり、そこに進学したかったのですが、親の反対、長崎南高校の受験失敗、何となく、サッカーに対する思いが冷めてしまっていて、すぐには入部しませんでした。高総体の始まる一月半くらい前に、何となく入部した記憶があります。そこには同級生のサッカー部員であり、一緒に戦った仲間で、若くして天国へ旅立った曲渕君の事は忘れられないことの一つです。



 監督というと橋本先生。角刈り、白い足、小さい目、まさに噂に聞いた「カッパ」でした。今思うと、技術的に何を教えてもらったのか記憶にありません。試合中は常に「走れ、持つな、上がれ」その言葉の繰り返しだったと思います。しかし、熱心で負けることが大嫌いな素晴らしい監督であり、恩師であります。練習試合で一度だけ当時絶対的な強さを誇った島原商業に勝ったとき、小峰監督が自分の生徒に「おまえら島原まで走って帰れ」と大きな声で叱っていたのを今でも思い出します。橋本先生もけっこう怒ることがありましたが、あの怒りには常に優しさが隣り合わせだったと思います。そういう先生に大学進学の時もサッカーで行かせてもらい、また仲人をお願いし、学校を退職されてからも、時々お酒の席を御一緒させてもらった事もありました。本当にいい思い出ばかりで懐かしく思います。


 先輩や同級生について少しばかりお話しします。幸い一年生の時に高総体に連れて行ってもらい、当時の三年生はトラッドファッション系が多くいて、島原の宿を抜け出して、コーヒーの飲み方について御教授を受けたことを忘れません。また、今でも思い出ばなしに出てくるのは、二年生の時に三年生の渡辺さんがコールドスプレイをするのに、何を間違ったのか解りませんが、キンチョーのスプレーを足にふりかけて大笑いしたことが語り継がれています。もう一人天国に旅立った小熊キャプテン。たぶん橋本先生以上に私は怒られていたことが思い出されます。


 そして、多才なる同級生たち。グランドの水まきで卒業したと自負する「マス」。牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけていた「ガキ」。「パンダ」「ウシ」「ブル」というあだ名の面々一人ひとりが非常に個性が強くて、誰がキャプテンか解らないほど個性的な集団でした。何時の試合だったか島原で多目的グランドでのこと。試合前に何人かが森の方へ消えていき、そして満足そうに戻ってくる。何をしてきたかいいませんが、万年ベスト4の壁を越えられなかったのも当然でした。メンバーは最高でした。しかし今思えば練習中に二倍走っていれば優勝できたと思います。


 今でもたまにピッチに立っていますが、スパイクのひもを結ぶとき、あのときの高校生に戻っています。本当にサッカーが好きで良かったと思います。

第7期 渡辺靖弘 「サッカーができる幸せ」 第7号

 今の時代、サッカーも生涯スポーツとなりました。各年代O-40(オーバー40歳)、O-50、O-60で全国大会まで実施されています。私も昨年(2007)O-50の大会で長崎県選抜チームの一員として九州大会、そして全国大会まで経験しました。そこには50歳代とは思えぬ技術や体力、気力が溢れかえり、また多くの人たちと出会うことができ素晴らしい思い出となっています。また、自分自身が健康で、そういう環境の中でサッカーができるということに大きな幸せを感じました。



 一昨年(2006)より長崎南高校OBとの南山・南交流試合や、さらには長崎の高校OB6校(南山・南・総附・日大・北・長工)対向の大会が行われています。現役の時には出会えなかった先輩や後輩達とサッカーができる喜びと、ボール回しをするだけで心が通じ合える不思議なサッカーの魅力を感じながら、大変嬉しく毎回楽しみにしています。願わくは多くの先輩、後輩の皆さん、こういう企画にどんどん参加して下さい。皆さん一人ひとりの力で南山高校サッカー部、そしてOB会を素晴らしい組織になるように盛り上げていこうではありませんか。


 さて、私の現役のときのことですが、不思議と辛いことや苦しいことは思い出しません。日々充実し、楽しかったことや勝ったときの喜び、また、同期の仲間はもちろん先輩や後輩に恵まれたこと、そのことが現在までの支えとなり感謝の気持ちでいっぱいです。皆さんと出会えたことは私の一生の財産だと思っています。


 一方、私のサッカーを愛する人生で悲しい出来事もありました。同期のキャプテンであった小隈建治君が、年若くして不慮の事故で亡くなりました。50歳を過ぎた今、彼と一緒にボールを蹴ったり、あの頃の思い出話に花を咲かせながら、一杯の酒をも酌み交わすことが出来なくなりました。


 OBの試合に橋本先生がベンチに腰掛け、メンバーを発表し試合中にはドスの利いた声で檄が飛ぶ・・・そういう光景を夢で見ました。最後に橋本先生、小隈君の御冥福を心よりお祈りし、皆さんの御健康と南山高校サッカー部、そしてOB会の発展を願っています。

第6期 久保 忍 「サッカーが好きなんです」 第6号

 橋本先生がお亡くなりになり、一周忌がおとずれました。

 南山高校に入学して、3年間ずっと橋本先生が監督であり担任でもありました。今想えば、「離したら何をするか解らない」という事だったのかもしれません。高校3年間だけじゃなく、社会人になってからもトータル35年間くらい教えられた感じがします。大人になってよくお酒を飲みにも行きました。銅座の街を歩くと、「先生、先生」と黄色い声がかかり我々よりももてていた感じです。お客だからというだけの理由じゃなくみんなに愛されていたのだと思います。ちょっと早過ぎたけれどもお疲れさまでした。それに「ありがとう」といいたいと思います。


 私は土井首中学出身で南山への通学は毎日が大変なものでした。クラブが終わり先輩と途中まで一緒に帰り、疲れ果て、バスで寝過ごしては、深堀、香焼、気がつけば野母崎まで行ってしまった事もありました。中学生活とはレベルがまったく違い、先輩たちはとても怖い存在でした。同期にはいろんな奴がいて言葉がちょっと解らない人も・・・。長崎は広いと思ったものです。


 試合では、おそらく高校1年の時だったと思いますが、大雨の中、大村のグランドにはものすごい水たまりができ、パスしたボールも走らない。センターサークル中央から水に浮いたボールをゴールした松下先輩のシュートは今でも忘れられません。


 私の同期は個性が強く、長崎弁で言う「キャーブリ」が多くいました。バッチリ決めたヘアースタイルを崩したくないが為に、ヘディングをあまりしないのです。試合でもそうで、いまでは笑い話の種となっています。個性が強過ぎてチームとしては上手く機能していなかったのではなかったかと思います。


 卒業して何10年たった今でも時々サッカーの夢を見ます。当時より35キロも太ったいまでは、もう体力的にも、運動能力的にも衰えましたけどやっぱりサッカーが好きなんですね。テレビで中継があるとよく見ています。その度に高校時代を思い出します。仕事中、南山高校の近くを通ると「今年は強いのか、どこまで勝ち進むのか」と思い、車を止めて様子を見たりしています。


 母校の活躍はいまでも気になり、我々OBはみんな、南山サッカー部の活躍を期待し、陰ながら応援しています。頑張ってほしいと思います。よい思い出を沢山作って、同期や先輩後輩と大人になって酒を飲みながら、昔を語れるようになればいいと思います。南山高校サッカー部での絆を末長く大切に。


 頑張れ南山サッカー部。

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第5期 松下直樹 第4期 森内一雄
第3期 小林 茂 第2期 中山純彦
第1期 塩田逸雄