第1期 塩田逸雄 「第1期生の回想」 第1号
昭和41年の春に門をくぐった時、この学校でサッカー部ができるとは思ってもみなかったことである。それが1学年の6月末頃、当時を振り返ると中学時代サッカーをやっていた情熱が彼らを動かしたことでしょう。中心的に動いたのは、古木、瀬戸口の両名が1年生のクラスを巡り、サッカー部を作ろうと説得して勧誘していました。その熱意に動かされ、初めての人、サッカーをしていた人両方会わせると約30人近くいたと思います。
さていよいよ、練習となると大変です。グランドはありましたが、ボールが無く、ゴールポストだけのコートです。おまけに先生達の許可がでるわけでのない状況でした。その中で練習をやると先生に見つかり、しかられ、また、練習をやるといういたちごっこのように、練習を続けていました。そうこうするうちに、学校側にも理解者がでてきてきました。時の校長フランツ・トルッケンブロード師です。校長はグランドにでてこられて、ボールの蹴り方、ヘディングのやり方といろんな指導をしていただきました。有り難いことです。
校長の決断で42年の春に同好会となり、部長に深堀貴司先生、監督に橋本国暁先生が指導してるようになり、練習を遠慮無くすることができました。しかし、部費が学校側からでるわけではなく、自分たちで用具を持ち寄り、43年の春に部として認められた時にはみんなが喜んだものでした。この2年間の間に3年生の部員も少なくなりましたが、下級生達もよくついてきてくれました。
今しみじみと思うに、クラブをやった仲間とは30年間がたった今でもいい門だなあと思います。故人になられましたが深堀先生、部を作るために働いてくれた1期生の主将古木博氏、心より感謝の気持ちでいっぱいです。また、橋本先生にはこれまで部を指導していただきありがとうございます。
これからは村里先生を中心に部がますます発展するよう、我々OB会も協力していきたいと思います。OB会のみなさまと在校生に幸多かれと心より合掌。
第2期 中山 純彦 「試行錯誤の活動」 第2号
私は昭和42年の入学でした。サッカー部は亡き深堀先生、橋本先生を中心に1期生の先輩たちと試行錯誤の活動をやっていたと思います。
今思うと、その当時のサッカー部は蹴る・走るだけの単純なゲームメイクのサッカーが主流ではなかったかと思います。高2の時、メキシコオリンピックがあり日本代表が銅メダルを取り、サッカーブームが到来となりました。
杉山が走り、釜本に合わせてゴールするこのパターンと、4・2・4のフォーメーションは私たち高校サッカーの少年たちにも大いに影響を与えた。特に私たち2期生のフォーメーションは以前より4・2・4か4・3・3だったと思います。ハーフ荒木君の巧みなドリブルで相手をかわし、左右のウイングを走らせてCFの安田君の大きな顔に合わせる攻撃パターンである。また守備においては、GK浜辺君のゴールを死守するセービングの雄姿が印象に残ってる。
最近のサッカーになるとJリーグの影響からか、戦略・戦術システムが高度化して、頭脳的に様変わりをしていて、あの頃の単純なサッカーも楽しからずやである。また思い起こせば、わが南山高校サッカー部の最初のユニフォームは、その当時最強のチームとなっていく島原商業と同じ、襟つきの緑と白の縦じまユニフォームだったと思う。そのユニフォームのスペアを実費でつくった際、Y君の提案で胸に学校のマークを入れる時、Nの字にクルスの十字架を入れたと思うが、おそらく今思うと勝利への誓いのマークだったと思われる。よく長崎北校と海星高校などと試合をした記憶があるが、私たち2期生のチームは勝ちゲームに恵まれなかったと思う。
しかし、高校総体では頑張ったと思う。1回戦は猶興館高校に2−0でが勝ち、2回戦は島原商業に0−1の惜敗でした。この試合はタイムアップ寸前に一瞬の虚をつかれ、バックラインの後ろに球をあわされゴールされた。悔やんでも悔やみきれない試合でした。思うに、この試合が小峰島商の常勝のプロローグになったのかもしれません。いつか後輩たちが小峰軍団の牙城を打破してくれることを期待したいと思います。
その他、グランド外の思い出として、雨の日の試合の後、神学院下の「徳の湯」と言う銭湯にみんなで入りに行ったことや、クラブ帰り腹の減った体をいやすためにいつも立ち寄った山里小下の小店での「立ち食い」は本当に懐かしく思い出されます。最後にチームウォーマー、ベンチウォーマーの多い2期生であったが、この3年間、チーム一体となったサッカーライフを楽しく過ごしてきたと思います。
今後はOB会でお会いしましょう。
第3期 小林 茂 「サッカー部の思い出」 第3号
初めにサッカー部監督として、また部長としてサッカー部発展の為、大変御苦労なされた橋本先生、本当にお疲れさまでした。また今後は良きOB相談役としてよろしくお願いします。
私たち3期生が入部したのは昭和43年、今から36年前の事です。一期生、二期生の努力のおかげでサッカー部発足の初年度の入部でした。でもその頃も先輩たちの時と同様サッカーボールの数も少なく、グランドの整備などサッカー意外での苦労などの思い出されます。今と違って、高校からサッカーをやる子も多く、まず基本からの毎日でした。ランニングのコースも
南山〜三つ山〜諏訪神社〜駅前〜南山
南山〜純心高校前〜浦上水源地一周〜南山
(なぜか純心前に来ると元気になるもの多数)
南山〜稲佐山頂上〜南山
など、とにかくよく走らされたものです。体力をつける事、それがその頃私たち一年生に与えられたものでした。
今はやられてないようですが、正月初蹴りの時のぜんざい作り、これも一年生の大切な仕事でした。薪割りから味付け、先輩たちの配膳、洗い物までが仕事です。初蹴りというよりは、台所仕事の一日です。寒い日の仕事ですから、大変でした。少しいやになってぜんざいの中にいろんなものを入れたりしていました。先輩達、36年前の事です、時効なので許してください。自分たちが3年生になると、このぜんざいももしかしてと思って食べたものです。おいしいぜんざいを寒い中作ってくれた四期生、五期生の皆さま本当にありがとう。
創部3年目くらいになると、サッカー経験者も多くなり、試合をする楽しみも出てくるようになり、またぼつぼつと勝つ事も覚え始めたのを思い出します。3年生に新人戦を終え高総体でシードをもらえた時の喜びは今でも覚えています。3年間同じように笑いまたつらい時を過ごした仲間、先輩、後輩とOB会で会える楽しみを作ってくれた皆さまに、感謝、感謝です。
50歳を過ぎても年に1、2回はサッカーの試合をしています。皆さまもたまには身体を動かして、来年の初蹴りで御会いするのを楽しみにしています。最後になりましたが、村里先生今後とも南山高校サッカー部をよろしくお願いします。南山サッカー部の今後のますますのご発展をお祈りします。サッカーをやっていて本当に良かったと思います。
第4期 森内一雄 「入部してのち」 第4号
橋本先生長い間、南山サッカー部をご指導、育成して頂き有り難うございました。私の南山サッカー部での思い出について述べてみたいと思います。当時有名(市中体連3連覇)、今は低迷している西泊中出身です。榎田君と共に南山に入学しました。入学して間もない頃、校舎からサッカー部の練習を見ていましたが、その時は入りたいという意思は余りなかったように思います。ちょうど、昼休み時間の時、当時のキャプテン安田さんが教室まで来て、「おい、ここに西泊から来た森内というのはおるか」と言って入ってきました。
「はい、私です」と返事して何事かと思い、見たら厳つい顔をしたまるでヤクザの世界から来たような風貌の先輩でした。用件を聞くと「お前が西泊から来た森内か」今日からすぐ練習に出てこい、わかったなと言われ、二つ返事で「はい」と言ってしまいました。
それが南山サッカー部への入部のきっかけです。今思えばその出会いが無かったらサッカーはしていなかったかもしれません。改めて安田先輩には感謝いたします。当時の南山サッカー部は橋本先生のもと、同好会から部に昇格した時でしたので先輩の方々も経験者、高校からはじめた方がおられ、高体連が6月初旬開催ということで一生懸命練習している姿を目の当たりに観て、その体力、シュート力は中学と数段の差があることを見せつけられました。
また、その中でどういう訳か私も高体連の試合に出る機会があり、中学当時のシューズはモンブランの布製でしたが試合に出るということで初めて皮製のタチカラ製スパイクを買って貰い、高体連2回戦だったと記憶していますが西校グランドでの小嶺先生率いる島商との対戦で後半途中から出場し、ゴール前でのボレーシュートを外し、結果1対0で惜敗したことを覚えています。
それから島商との因縁の対決が続き、極めつけは2年生秋の今で言う全国高校選手権の県予選が島原で開催され、我々2年生主体のチームの中に牛津先輩にも参加してもらい、大会に臨みました。
下馬評では3回戦行けばいい方だろうというのが大方の予想でした。しかし、蓋を開けてみるとアレヨアレヨと言う間に決勝まで進んでしまい、南山サッカー部創設間もない中で決勝まで進むのが快挙であり、優勝は目前となり、我々もそれまで以上に気合が入り、試合に臨みました。試合は0対0のまま、延長入り、それでも決着がつかず、PK戦と誰でもが思っていた時、小嶺先生が再延長で決着をつけようと言うことになり、橋本先生も「よし、決まった以上は決着をつけよう」ということで、試合が始まり、バックスの榎田君がゴール前の競り合いで頭から落ちその結果、脳震盪により、立ち上がることが出来ず、その隙に決勝点を入れられ本当に手に届くところまで来ていた優勝を逃すことになりました。
それがきっかけで他校から南山は強いと認められ、我々が3年生の時は長崎勢が島原勢よりも実力があり、市内では南山、平鍋先生率いる南高、前田先生率いる長工が三つ巴の戦いを繰り広げていて、面白いことに南山は南に強く、長工に弱い、また南は長工に強いという現象が起きていました。
然しながら、我々4期生はチームとして優勝する実力を持っていましたが周りからチヤホヤされ、準優勝したと言う油断から練習に身が入らず、最終的には高体連2回戦で今まで一度も負けた事が無かった造船付属高に敗れ、苦渋をなめさせられることとなり、橋本先生には一番期待を裏切ったチームだったと思います。誠に申し訳ありませんでした。4期生を代表してお詫び申し上げます。
後輩の方もこういう先輩達もいると言うことを覚えておいて頂きたいと思います。
村里先生、教え子2名がV、ファーレンFCに入団されたことを知り、Jリーグ目指して活躍されることをOBとして期待しています。また、後輩の育成を宜しくお願い致します。
今後益々南山サッカー部及びOB会が発展することを祈念いたします。
第5期 松下直樹 「クラブの思い出」 第5号
私は高校へ入学する前より南山高校サッカー部の練習に参加し、合宿の際には「お客様」あつかいでした。いいものを沢山食べさせてもらったし、練習をしているだけで良かったのです。しかし、入学してしまえばだだの1年生でした。
練習の印象や思い出は、雨が降れば浦上水源地へのランニング、学校へ戻ればグランド内に貯まっている水をゾウキンで汲み出して練習をしていたのです。先輩方もこれといって命令するわけでもなく、割りとのんびり過ごしていました。逆に我々が3年生になると「先輩方は難しいことをよくやっていたのだな」と感心し、私もそれに有る程度近づけるようになりました。
思い出に残る練習試合をひとつ紹介致します。何といっても海星高校との30分3本の練習試合です。試合は9対8という結果です。南山が5点取れば海星が立て続けに4点取ったり、みんな真面目に試合しているのですが、海星高校と試合をするたびにこんな展開でした。たまに思い出し思わず苦笑いしてしまいます。
私がもっとも忘れられない思い出は、当時の長崎市内の高校のレベルが高かったことだと思います。長崎市選抜でつくったチームで県大会に参加しました。そこで優勝し、九州予選大会でも勝ち国体の切符を手にしました。全国のレベルを知るチャンス、いい試合を経験させてもらいました。忘れられないのは、私がワンゴールあげたことです。今でもその時のシーンがよみがえってきます。全国で戦えることは本当に良い思い出と経験になります。後輩の皆様も全国で戦える日を1日も早く達成して頂きたいと思います。OBのひとりとしてしっかり応援していきたいと思います。いこうぜ全国!
最後に南山高校でのサッカーの経験でより多くのことを学び、橋本サッカーの教えをきちんと守り、これからもサッカーに携わっていけたらと思っています。現在もシニアとして全国大会をめざしています。
南山サッカー部ありがとう。