寄 稿 文

OB回想とは別に、監督・顧問の先生や、また、さまざまな分野で活躍のOBに寄せて戴いた「寄稿文」です。長崎南山高校サッカー部の創部の経緯など盛りだくさんの内容です。

5 彼らに期待すること

OB会顧問・長崎南山高校サッカー部 現顧問 吉野桂太 第4号 2005.5.17

 南山に奉職して17年目を迎えています。新任時から10年以上中学サッカー部を指導してきました。その後、高校サッカー部へ関わるようになって3年目となります。これまで、多くの(中学・高校の)サッカー部の生徒を見てきました。卒業と同時に就職した子、苦労して就職した子、専門学校に進んだ子、大学に進学した子もいれば、大学院へ進学した子もいます。再会するたびにそれぞれの"場"で一所懸命がんばっている話を聞きいつも嬉しく思っています。
 現在、高校3年生の特進クラスの担任を務めています。特進クラスと言うことで、国公立大への進学を希望する生徒ばかりで、難関大学を希望する生徒も少なからずいます。彼らにうるさく言うことは「日々の与えられた課題に努めろ」ということです。彼らには毎日相当量の課題(英語・数学・国語・理科・杜会:全ての教科)が与えられています。その課題を終わらせるようとすれば、家庭にいる時問のほとんどを勉強に使うことになると思います。それが「とんでもないこと」だと言うことはよくわかっています。それでも、彼らを志望の大学へ合格させようとすれば、それは「やむを得ないこと」(=必要悪)だということもわかっています。


 理想論で言えば、「家ではゆっくりと時間を過ごして欲しいし、本を読んだり、映画を観たりして欲しい」とは思います。けれども、現実はそれを許してはくれません。大学は入りやすくなったと言っても、国公立大の入試はさらに激化しています。その''戦争''を現役で勝ち抜くためにも(たとえそれが厳しいものであっても)「日々の与えられた課題をきちんとやり遂げて」欲しいのです。


 ところが、自分の意志で選んだはずの特進クラスの生徒たちのなかでも、担当者の期待に応えらえない生徒が少なからずいます。毎日、課題をしない生徒が数名います。しかも、それはそのほとんどの場合が同じ生徒なのです。2年間そういう生徒たちを観てきて思うことは、『できる子』と『できない子』の違いは『能力』ではなく『意識』だというこです。『意識の高い子』は確実に課題を済ませて登校して来ます。逆に『課題をこなせない子』は明らかに『自分自身に優しい子』です。『自分自身に厳しくできない子』は課題を済ませずに平気で登校して来ます。その『意識の低さ』は勿論勉強以外のところでも見られます。精神的な甘えが生活のあらゆる"場''で見られるのです、要するに、『できない子』はがんばれないのです。『できる子』は能力が高いのではなく、ただがんばれるだけなのです。


 今、特進クラスの中に部活生が一名います。部活との両立が難しいと言われる現実の中で100%期待に応えているとは言わないまでも、非常によく努力しています。優待生でもある彼がサッカー部員であることはサッカー部に携わる者として誇らしくさえあります。他にも、国公進クラスで部活との両立に努力している生徒が数名いますし、文系進学クラスで英語の添削指導を受けている3年生の部員が数名います。


 「クラブだけはがんばる」と椰楡される文系クラスの中にあっても苦手科目を克服すべく『高い意識』をもって努力している事をとても嬉しく思います。同時に、彼らの今の『がんばり』が卒業後もそれぞれの''場''で活かされるものと確信しています。そして、その『がんばり』こそが高校総体やプリンスリーグの試合で活かされるものと期待しているのです。

4  回顧40年、私とサッカー

OB会顧問 元部長・顧問 橋本国暁 第3号 2004.5.15

 教員生活40年、サッカー部の顧問として20年、あっという間の年月でした。思い起こせば数多くの思い出の試合がありました。その度にあの時こうしておけば、ああしておけばという後悔の思い出ばかり、次の大会ではこうしよう、こんな試合をとの繰り返しで年月が過ぎたような気がします。


 昭和43年に本サッカー協会に初めて登録し最初の公式試合で、9-0で島原工業に負けたのが、長崎南山高校サッカー部のスタートであり、私とサッカーとのかかわりの最初であった気がします。


 素人の私が技術の指導が出来る事もなく、戦術がどうのといえる技量がある訳でもなく、部員の中で小学生からサッカーをした生徒も少なく、いわば素人集団でした。
どの子がどのような能力を秘め、どのような資質があるのか見抜く力量もありません。生徒の能力を見いだす事の難しさをしみじみと思い知らされました。
それはちょうど授業で国語の指導をしていて、個々の力をどう伸ばす事が出来るのか、指導法に問題があるのでは、自分の能力はどうなのか苦悩する毎日であったように思います。


 そのような中で唯一言える事は、自分の好きなことに熱中できるものを持ったという事です。好きな事に熱中できる素晴らしさ、その姿勢の輝き、若者の真の姿がそこにあるのだと思いました。サッカーの技術がどうだ、戦術がどうだ、そんなことは細かい事。これを言う前に好きで集まった生徒に楽しく、好きな事に熱中できる場を、時を与えられればいいのではと思いました。


 だがそうはいっても試合です。勝敗があります。敗けて楽しいはずがない、相手がいて戦うのならば勝たないと戦う意味がない。勝って喜びがあり、自信が生まれ誇りもある。何の戦いでも勝って初めて戦う意味があると思っています。


 「一期一会」この言葉が私は大好きです。サッカーを通し、長崎南山高校という場所で私と出会ってくれた生徒諸君に、楽しい中に生きる喜びと自信と誇りを身に付けて欲しいと願い、素人ながら教育の中に身を置く私はサッカーを教育の一環と捉え、専門的な事は二の次とし、戦う事の厳しさ、苦しさ、激しさを体得して欲しいとの願いで指導してきたつもりです。


 長崎南山高校で皆さんと出会えた事を無上の光栄と思っています。「一期一会」の出会いを終生の宝、結びつきと思い、出会えた皆さんに感謝し、喜びを噛みしめる今日この頃です。


 最後になりましたが、今度の勇退祝賀会挙行いただいき感謝の言葉もでません。
 ありがとうございました。

3 夢の全国大会

第12期 野崎昌信(当時 式見小教諭第2号 2003.5.15

 式見SSSは、創部19年目にして初の全国大会出場。過去何度かチャンスはあったがものにできなかった。しかし、今回子供たち・保護者らの頑張りで県一の座を勝ち取ることができた。


 初の全国大会、希望に胸を膨らませて「讀売ランド」のピッチに立った。予選リーグ第1戦目は、兵庫県代表「兵庫FC」。兵庫FCは、何と部員が400名という大きなクラブチームであった。しかし結果は2-1の勝利。第2試合目は、山梨県代表「上野原SSS」、結果は2-1の勝利。第3試合目は、茨城県代表「いばらぎSC」、結果は2-2の引き分けだった。総得点の差で2次ラウンド進出し全国ベスト12となった。


 続く2次ラウンドは、昨年度の優勝・準優勝チームの「静岡JFC」「柏レイソルJ」との対戦となった。全く歯が立たず全国のすごさを感じることができた。しかしながら子供たちの頑張りには拍手を送りたい。


 その経験のおかげで、今年正月のフットサル全国大会では、全国の強豪を抑えて、長崎県では初の全国「準優勝」という輝かしい成果を収めることができた。
全国大会出場という経験は、私にとって、また子供たちに・保護者・地域にとっても貴重なものであったと思う。その経験が今後の人生の糧になることを信じていきたい。

2 全国への挑戦  長崎南山学園「五十年の歴史」より

OB会顧問・長崎南山高校サッカー部 現部長 村里英樹 第2号 2003.5.15

 我が南山高校サッカー部は、創部昭和42年同好会としてスタート。翌昭和43年4月、部長深堀貴先生、副部長橋本国暁先生のもと、正式な部として認められ、本格的な活動が始まり、今年(平成14年現在)で34年目を迎える。昭和46年から橋本先生が部長となり、部訓の「規律ある闘争心」のもと、打倒島原商業を合い言葉に日々厳しい練習に励んだ。


 創部当初は、グランドはあったものの、ゴールポストは木の枠がグランドの隅に立っているだけ、ボールも持ち寄りで、ネットも漁網を使っていたいたという。そういう施設、用具に不自由する状況の中で、サッカーが大好きな生徒が集まり、年を追うごとに力をつけていった。


 昭和45年全国高校サッカー選手権長崎大会において、決勝戦に進出、西九州大会の出場権をかけて島原商業と対戦、3-3の延長となり0-0、再延長でも勝敗がつかず、2時間後の再試合となったが0-1で惜敗、記憶に残る試合のひとつであった。また、昭和50年新人戦、高総体第3位。翌51年県新人戦第3位、高総体準優勝、常勝島原商業と互角に戦い、今一歩というところで涙をのんでいる。


 しかし、第8、9期生ほど、県下に南山サッカー部ここにありと、力の程を示した時はなかった。また昭和54年度卒の森正明君は、福岡大学からフジタ工業(当時の社会人リーグトップクラス)に入社し、FWとして活躍、日本代表に選ばれ、W杯予選を始め各大会で胸に日の丸をつけて活躍したことは、南山サッカー部の誇りである。


 昭和63年から村里英樹が部長に就任。指導に当たり、昭和63年県新人戦準優勝をしたものの、準決勝戦の壁は厚く、常に3位の成績が続いた。中でも平成元、2年は技術的にも高く、個性豊かな選手が多く、3位に終わったことは痛恨の極みであり、10年の指導者生活の中で、この時ほどサッカーの指導の難しさをしみじみと感じた時はなかった。


 平成11年の県新人戦では久しぶりに準優勝し九州大会に出場。翌12年県新人戦、13年高総体でも準優勝し、連続で九州大会出場を果たした。この実績が認められ、平成13・14年度強化指定校に認定された。これも現部員だけでなく先輩の方々の築かれた伝統の力があればこそと感謝しています。現部員78名の大所帯となり大変な面も多いが、来年度本県で行われる長崎インターハイ出場に向けて、部員一丸となって「全国への挑戦」を合い言葉に夢は大きく「日本一」を目指して前進していきたい。

1 管鮑の交わり

OB会名誉顧問 元部長・顧問 橋本国暁 第1号 2002.2.23

 南山高校サッカー部OB会の諸兄、元気に各方面で活躍する報に接するたびに、大変頼もしく、うれしく思います。壮健にてお過ごしのこととお喜び申し上げます。
 昨年、念願のOB会の発足を果たすことができたことを大変うれしく思っています。以前よりOB会を作ろうという呼びかけは各方面からあったのですが、私が仕事の都合で名簿作成に手間取り、申し訳なく思っていました。事務局の佐々野君というよき事務方をえまして、名簿作りも完成し発足の運びとなりましたこと申し訳ないのと佐々野君への感謝も気持ちでいっぱいです。


 早いもので昭和41年の5月頃だったか、1期生の塩田君、今は無き古木君、瀬戸口君等が、当時体育の高橋幸信先生に相談していたのを覚えています。そのとき私が顧問になるとは思ってもいませんでした。
 「一期一会」何かの縁でしょう。以後現在までサッカーと関係し、楽しいことばかり、諸兄とも出会うことができ、今もってサッカーを間に話ができる、こんな教師冥利はないと大変うれしく思います。


 その上に、会報まで発刊しようとは思いも寄らないこと、現在の現役の成績はもちろん400名を越す卒業生諸兄の各方面での活躍を載せるものよく、当時を振り返って思い出を語るもよし、さまざまな使用が考えられるかとおもいます。この第1号の発刊に当たり、見出しを「管鮑の交わり」とつけました。これは「利害得失を越えた親密な友達づきあい」のたとえに使われる故事です。クラブのOB会はかくありたいとの私の願いでもあります。年に一度集うことで学年を越え、親交を深め楽しい一時が過ごせればと思います。また、それぞれの近況を報告しあうものよいことではないかと思います。


 それぞれが多忙な社会生活の中で潤いを求める一時であってほしい、そんな会であってほしいと願っています。思い出は誰にもある、語る中に親しみがでるもの、一度ぜひ参加してほしい。私も元気な間は参加しようと思っていますので、君たちも元気な姿を見せてください。


 この会が年々歳々盛会になることを祈って発刊に寄せての言葉とします。

長崎南山高校サッカー部略歴
・昭和41年5月創部へむけて活動
・昭和42年同好会としてスタート
・昭和43年4月創部
   部長 深堀 貴
  副部長 橋本国暁
・昭和46年〜62年
   部長 橋本国暁
・昭和63年〜
   部長 村里英樹